昭和48年1月13日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 信心に連れは要らんという事は、本来信心には、連れがあってはならないのである。朝参りをするのに、夫婦連れのうて参ってくる。家族中で連れのうて参ってくる。そういう意味ではないですね。ここで言うておられるのは、そういう連れじゃない。そういう連れはあったがええ。誘い合わせて参ってくる。けれども信心お参りには連れは要らん。お参りには連れがあってもええけれど、信心には連れは要らんのです。いや本質的にね、言うて信心に連れのあって良かろうはずがない。
 何故ってその人その人に違うんだから、百人百様なのだから。一様と言う事はないのだから、日に日に生きるのが信心なのだから。二十四節にあります様に人に誘われての、しようことなしの信心は付け焼き刃の信心じゃ、付け焼き刃の信心は取れやすいという風に教えておられます様にね。そういう意味での連れではない。あんたも参りなさいと言うて、勧められてから、しよう事なしにお参りをする。
 そういう信心は付け焼き刃の信心で、取れ易いんだと教えておられますが。その連れとはここでは違うように思うです。信心に連れとお参りには連れが要っても、信心には連れなわれないのです実際は。昨日高橋さん所の職人さんですけれども、熱心にお参りがあっております。それで先生人間の充実感と申しますか、と言うようなものは、大体どういう様なのが、充実感が本当な事だろうか、と言う様な事を質問を受けました。さぁなそれは色々あるんですよ。
 所謂充実した一日と、自分の仕事なら仕事でも、思う存分の仕事が出来た時などは、充実感を感じます。お商売をさせて頂いとるなら、今日は本当に一日忙しく、しかも良い商いが出来た時なんかは、しみじみ有り難いというものを感じます。家内は主人に優しく、子供はすくすくと成長しておる。本当に言う所はない。お風呂にども入ってあヽ有り難い、有り難いと幸福を実感します。充実感に浸る事が出来ます。
 まぁ言うならば一生懸命働けたとか、今日は良い仕事が出来たとか、子供が言う事を聞くとか、良い家内を持って幸せだと。そういう時に皆んなそういう充実した実感と言うものがあるだろうと、こう思うですけれどもね。それを色々に私は説明したのですけれども、果たしてそれは適当な答えになっただろうかと、後から思わせて頂いたら思わせて頂く程、大変な難しい事に気がつきました。そして信心で言う充実感と言った様なものは、そんな物ではないという事を気づきました。
 むしろ良い仕事が出来なかった。子供が言うことを聞かない。言うなら楽ではない、苦しい思いをする時。楽な時より以上にしみじみと有り難いなぁと感じられる心が、信心でいう充実感です。自分の思うように本当に都合良くおかげを頂いて、健康でありおかげで家庭も円満であり。愈々この調子で行くなら、子孫繁盛家繁盛、疑いなしと言うような時はです。むしろ警戒を要する時。
 昨日それを聞いておられてから、高橋さんが横から言われるのです。丁度あの泉水の向こう側の生け垣がサザンカです。あの辺の所が泥が悪かったと見えて、もう枯れる寸前の様な格好をしているんです。ところがね。花だけはもういやらしい位に、一杯咲いてるです。だからその理をね。高橋さんが言っておられるのです。ここのもちの木がずっと生け垣にしてあります。あのネズミモチと言いますかね、もちの木に黒い実がなります。黒い実がなる時には、もう弱っている時だそうですね。
 木が花を一杯付ける時には、もう後に子孫を残さなければならないからですね。花を一杯付けるんだそうです。実が一杯実る時にはね、もう後に自分の種族と言うものを、残さなければならないから、あの黒い実が一杯なる。だから黒い実が一杯なった時には、肥料やって下さいよと言うて、植木屋さんが言うておった事を、高橋さんが話しておられます。ですからあれも成就、これもおかげと言った様な時には、私共が愈々信心に、力を入れなければならない時。
 言うなら三代金光様のお言葉をお借りするとです。有り難うて有り難うて、と言う時は、金光様はその先をどう仰っておられるかと言うとね、有難うて有難うて、思う事も欲しい事も無くなり、只々お礼の足りないお詫びばかりを致しております、と言う様な信心にならなければいけない。ですから信心はよりしみじみと、一段と熱心にならなければ、危ない訳です。本当にあれを思いこれを思い、おかげを頂いて勿体ない事じゃ、有り難い事じゃと、けれども実際はそれに対する所の。
 神恩感謝の信心と言うか、ものは出来ていない事の、相済まなさと言うものに気付かせて頂いて、私はお詫びとはそういう時にするお詫びが、本当のお詫びだと思うですね。お礼の足りないお詫びばかりを致しておりますと言う。そこで私共信心させて頂く者が、どのような実感、どの様な状態であることが、間違いないかと言うとね、その事を思い続けておったんです。その後も。信心させて頂いておる喜びに、浸っておると言う時なんですけれども。それを言葉に現したら、どういう事になるだろうかと。
 信心の栄光の歌の文句に天地は、神のふところ、人は皆神の愛し子、その事を頂いてですね、所謂無色透明ですね。見えないです。見えないけれども、それはやはり何か人の姿を感じる。それにこう芯から抱かれていると言う状態を頂いて、今のこの事を頂いた。神様ほど疑うなら、限りなく疑えるものはないですよね。姿も見えなければ、形もないのですから。その姿のない声もない、その神様にです。抱きかかえられておるんだと言う実感なんです。その神様の懐の中にあるんだという実感なんです。
 天地は神のふところ、人はみな神の愛し子。ですから信心とはそういう実感が、愈々本当なものになってくる稽古なのですから。とても連れなんかがあって良かろう筈がないです。この実感と言うのはね、限りがないです、ピンからキリ迄です。昨日善導寺の久保山さんが、二度目にお参りをしてからの届けでしたけど、もう親先生此の頃は、本当に朝目が覚めるという事だけに対しましてでも、もう本当にこんなおかげがあろうかと実感致します。と言うお届けをしております。素晴らしい事ですね。
 信心させて頂いて只色んな事情も事柄も、いうなら難儀も一杯ありますけれども。朝目が覚めたという時にです、信心の喜びを心から、それはもう本当に口だけじゃないと思うですね。皆さんもご承知の様に、朝の御祈念それから夜の御祈念、それはもういそいそとして、お参りをしておられる。もうしようことなしじゃなかですもんね。その参っておられる、それからそれを感じるのです。もう本当に目が覚めたら、心に喜びを一杯感じながら、起こして頂いているという実感なんです。
 けれどもそれを頂けたからそれで良いという事じゃない。それからが信心の稽古なんですよ。今嫁の陽子さんが毎朝、朝の御祈念に参りたい。寒修行が始まったから、お母さん私もお参りしたいとこう言う訳です。そんならあぁたが朝、御祈念にお参りしなさい。あぁたが帰ったら私がすぐ今度はお参りをするからと言うて、まぁ言うなら木かん渡しの様にして、お参りをしてくるのです。
 ですから本当言うたら、今陽子さんの心は親子一緒にお参りしたいのですけれども、子供がおる訳です。子供と言うても小学校三年生と、一年生でしょうか。ですからお母さん、やっぱりあなたはおって頂いとかんと、何時どう言う事子供が休んどりますから、それで、私がそんなら日頃がお参りが出来んから、寒修行中だけは私がお参りさせて頂きますから、お母さん貴方は私が帰ったらすぐにお参り、ちゃんともう待ち構えてあるだろうと思う。陽子さんが帰ったと思うたら、すぐ合間のう見えますもん。
 ところが例えばこの辺が、ちっと信心は厳しいと言うか、酷と言や酷という所ですけれども、それからが稽古なんです。先日青年会で、御本部の念頭参拝を致ししました。その時に、石井信司さん達が、兄妹でお参りするようになっておった。丁度二日の初売りなんですね。呉服屋さんとしては大事な言うならば一年の蓋開けの日ですから。自分達がおらんで、むつ屋は店を閉めておくという事は出来んのです。言うならば念頭早々から、お店を閉とかにゃいかん。
 だからどんなにでも実は、お参りしたいのですけれども、こうして初売りが二日からですから、ご無礼しますと言うても、十分それで理由は立つ訳なんです。けれども本人達はお参りしたい訳なんです。それでその事についてのお願いがございましたから、私は申しました。まぁ普通で言うなら、そうじゃなぁそれは、お店の事が有るから、又四月の大祭なら四月の大祭にでも、お参りすればええじゃないかと。そういう意味でならです。それで良いのですけれども。
 本当に天地は神のふところ、人は皆神の愛し子であるという実感、それは無形なもの、形もなければ、姿もないものに憧れて、しかもそれにです憧念心を燃やして、そこから神様を分からせて頂こうと言うのが信心ですからね。ですから抱きかかえられておる訳なんです。けれどもそこに確かに、抱きかかえられておる証拠にはです、お乳を与えられておるという実感がなからなければ、信心は空なものになるのです。
 金光様のご信心は。所謂おかげです。成る程二日なら二日という大事な日を、閉めてしまったけれども。かえって三日になったら三日、四日と言う日にかえって商売の上におかげを頂いた。と言ったような体験が生まれてきて初めてです。成る程神様の懐の中に有ることだなぁ、愛し子としてのおかげを頂くんだなと言う様なです。いわゆる体験こそが大事だから、信司さんそんならそれは、その事は一つ一蹴して、その初売りの日の事だけは、言うなら犠牲にしてお参りを、本当にするかなと申しましたら腹が決まった。
 その後は聞いてもおりませんけれども、そんならそういうお参りをしたら、やっぱりいつも二日の日には、あれだけ売れるとに、売れじゃったと言う事になるかも知れんけれども。さぁそこが本当なものになる事の為の稽古です。そこを、繰り返し繰り返しして行くのです。今日私はその事を思わせて頂きよりましたら、繁雄さんの、繁という字をを頂いたんですよ。敏(すみやか)に糸とこう書いてある下に。そういう生き方にです。私共の本心が決まった時、もう繁盛おかげの糸口は出来るのです。
 これはそれは誰でもが、合点するような信心と言われますけれども。こういう信心は、信司さん、こういう信心が、合楽では人からある場合には、避難される所があるもんねぇと言うて話した事です。ちょいと呆れた。もう一番大事な日に、御本部参拝てんなんてんと、人は笑うに違いありません。信心の薄い人なら必ずそれをです、それはあんまりの信心じゃと言いますけれども。
 そのあんまりの信心からこそ、本当のおかげが頂かれるのです。そこにです。そういう信心がです。そういう信心を、発心させて頂く所から、神を信じて疑わないという信心が、段々出来るところから、そこに、速やかに神様との繋がりと言うものが出来る。敏に糸という字を書いたら、繁盛の繁と言う事になります。だから信心の稽古という事は、実は、それなんですよ。只誰でも合点の行くような信心を、一生かかってお日参りさせて頂いておっても大したことありゃしません。
 例えば久保山の今のお話をしましたが。陽子さんはお母さん貴方がおって頂かなければ、一緒に参ると尚良かけれども、子供達がおるからとこう陽子さんは頼んで、お母さんにおって貰う。けれどもね神様の御守護を頂いておる。神様のお守りを受けておるじゃないか。親子共々にお参りさせて頂く。子供が休んでおるとは、神様にお願いをして、お参りが出来るような、そういう稽古が信心には必要なんです。
 そういう信心に発心した時ですね。発心した時に初めて本当の意味に於いての繁盛ですよ。五つの願いに言う所の子孫繁盛家繁盛と言う、そういう五つの願いで言う所の子孫繁盛家繁盛のおかげに敏やかに繋がる事になる。皆さんが私の信心を見て下さると、そうでしょうが。今私歯が化膿しております。もうこんなのは歯医者に行ったらもうすぐ楽になるとですよ。けれども私は大事に大事に取っておる。それで神様にお願いさせて頂く。お願いさせて頂いたら「苗」と言う字を頂いた。草冠に田と書いてある。 
 所謂ままになる元ですよね稲苗とこう言うでしょう。私は皆さんにおかげを頂いて貰う為に、皆さんに苗を植え付けて行かにゃいかんです。だから成る程医者にかからんでん、こげなおかげが受けられると言う事実を、私が示して行かにゃいかんです。いやそれよりもむしろです。自然に自然におかげを頂くと言う事は、天地自然の神様のお働きは、この様にも巧妙で微妙なものである、デリケートなものであると言う事をです。
 私は皆さんに植えて行かなきゃなりませんもん。そういう材料なんです。私はその苗という字を頂いてから、なおさら一段その感を強く致しました。私の生き方は全てがこれです。ですからおかげに速やかに繋がる訳です。繁盛の言うならお互いが、子孫繁盛家繁盛を願っておってもです。只繁盛すりゃ良いというのではなく、繁昌する元を作らにゃいかんです。私が信司さんに申しました様に、本当に商売繁盛のおかげを、本当の意味に於いて頂く意味合いに於いてなら、人間心は振り捨てて。
 只、神様を信じ申し上げておるという、それに賭けたら良い。それで困ったと言う事になるかも知れません。けれどもそこには自分の神を信ずる、真の力がまだ足りないのだと思わせて頂いて、繰り返し繰り返しして行くうちにです。絶対の神様の働きと言うものを実感する事が出来る。成る程天地の親神様の懐の中にあるなぁと言うだけではなくてです。例えば、久保山のお母さんが言っておりますように。
 本当に目が覚めて、その瞬間から思うことは、神様のおかげを頂いておる事の有り難さと言うものを、実感するという所からです。それには所謂抱きかかえられておる、その証拠にはです。ひもじい時には神様が、もう乳房をくわえさせておって下さる様なおかげを頂いて、初めて実感としての神様を、目には見えない姿にはない、声も聞こえないけれども、その神様を愈々信ずる力と言うのが、生まれて来るのです。
 私は信心には連れは要らんと、日に日に生きるが信心と言う、この厳しい言葉の中から、そういう様なものを感じさせて頂いた今日は。昨日たまたま親鸞上人のお書物を、ちょこっとばっかり読ませて頂いた所に、こういう事が書いてございました。「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせ、往生をばとぐるなり。と信じて念仏を申さんと思い立つ心の起こる時即ち、摂取布施の利益に預けしめ給うなり」とあります。
 今日私がこれは申しました事が、これは親鸞風に親鸞自身が、感得しておられる、これはお言葉だと思います。信じて念仏申さんと思い立つ心の起こる時ち、私共がです今日皆さんに聞いて頂いた様な信心を、本当にそういう信心を頂かせて貰おう。そういう信心そう言う神様を分からせて貰おう。成る程神様の懐に中にあるという所までは、話を聞いただけでも実を言うたら分かるのだけれども。
 そんなら抱きかかえられてお乳を頂かせて貰えると言う、実感というものは、信心の言うなら子孫繁盛家繁盛の、これが土台になる訳です。そういう信心を頂く、信じてそれが出来れる様になる為に、例えば信司さんの例を取りました。そういう所も繰り返し繰り返しです。神様を信じて疑わない、自分自身に育て上げ鍛えて行く所の、そういう信心修行が、またいるんだ。そういう所にです、信心にとても連れはなりきらん他の者は。もう自分だけの物、信司君だけの物、久保山陽子さんだけの物。
 それはもう真似では出来ん。それを例えば真似してしよるとやり損なう。もう放うからかして参っとったら、家ではこうじゃったとか。お店のこういう時に行ったら、返って困った事にこうやったと、いう様な事でもう挫折してしまう。けれどもそれを信じて、念仏申さんと言う所になって来る時にです。例えそれは、御本部参拝をしておる後に、どういう事が起こっておっても、神様の御働きの中にあるのだ。神様の懐の中に抱きかかえられて起きておる事なんだからと、分からせて頂く時にです。
 心に充実した喜びと言うものが有るのです。はぁ売れた売れたと言う時に、本当に幸せを感じますと言うのじゃなくてね、お風呂の中であぁ極楽と言うのではなくてですね。それとは反対の時にです。神様の御働きの中にありしかも、こういうお育てを頂いておるんだという実感がです、育って来ると言いう事が信心その辺りの所をです。日に日に生きるが信心なりと言うことは、もうその日その日の事はもう空しうして行く。そして又次の新しい自分が生まれておると言うのですから、大変厳しいことです。
 昨日の事が例えば売れたとか、売れなかったという様な事じゃない。今日はそういう意味で特に今の、親鸞の言葉と私が今日、皆さんに聞いて頂こうとする所を、ひとつ思うてみて下さい。金光様のご信心いや合楽で、ご信心の稽古をされる方は、ここん所を本気で稽古させて貰うという気が起こる時、もうすでに子孫繁盛家繁盛のそれに繋がっておる時なのでありますからね。
   どうぞ。